2023/05/18
作成者:大久保 豪


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注意点
本資料は、中国の古典において「聾」がどのように記されているのかを研究するために作成したものです。現代の観点でみて、ろう者を貶めると思われるような内容であったとしても掲載しています。

礼記

戦国時代に成立か

王制

王者の政治制度という意味で王制という。王者のとは、本文首章の語釈に説くように、儒教における「理想的な」物ごとをさすから、王制篇には、理想的な政治制度のあらましが記録されている、と解してよい。もとより、必ずしも儒教における一般的理想ではなく、漢代一時期の、儒家の一派の主張を示すものであり、後漠の盧植は「この篇は、孝文帝が博士や学者たちに作らしめたもの」と言う。

出典 竹内 照夫(2014)『新釈漢文大系 27 礼記 上』26 版. 明治書院, p185.

少而無父者謂之孤,老而無子者謂之獨,老而無妻者謂之矜,老而無夫者謂之寡。此四者,天民之窮而無告者也,皆有常、跛、、斷者、侏儒、百工,各以其器食之。

幼くて父を亡くした者は孤といい、老いて子のないのは独といい、老いて妻のないのは矜といい、老いて夫のないのは寡という。この四者は人民中の、苦しんで訴えるところのない人びとである。これに対し、朝廷は一定の食いぶちを与える。また、ロ・・片足・両足・片手・両手などの不具の人、こびと、および々種々の技芸を事とする人びとには、それぞれの職分に応じて食いぶちを与える。

出典 竹内 照夫(2014)『新釈漢文大系 27 礼記 上』26 版. 明治書院, p220-221.

荀子

戦国時代に成立か

修身篇

身を修める必要とその方法並びに効果を述べ、一切が人間行為の準則たる礼に則るべき事を強調している(藤井 2018)。

禮者、所以正身也,師者、所以正禮也。無禮何以正身?無師吾安知禮之為是也?禮然而然,則是情安禮也;師云而云,則是知若師也。情安禮,知若師,則是聖人也。故非禮,是無法也;非師,是無師也。不是師法,而好自用,譬之是猶以盲辨色,以辨聲也,舍亂妄無為也。故學也者,禮法也。夫師、以身為正儀,而貴自安者也。《詩》云:「不識不知,順帝之則。」此之謂也。

礼というものは、その効用は、人間行為の外部的準則として身を正すものであり、師というものは、礼を人倫社会の中で正しく維持して行く者である。したがって、礼がなければどうして一身の行動動作を正してゆく事ができようか、また師がなければどうして礼の妥当性を知り得ようか。礼に定められている通りに行動できるのは、その人の気持が礼にすっかり落ちついているからであり、師が言った通りに言行することができるのは、その人の智慧が師と同等の状態になっているからである。性情は礼に落ちつき、智慈は師と同等になれば、もはや壁人と言う事ができる。だから礼にそむく者は法を蔑視する者であり、師にそむく者は師を侮辱する者である。師長と礼法を正善なものと考えず、自分だけの考えで行動する事を好む者は、ちょうど、めくらが色彩を見分け、つんぼが音階を聞き分けるようなもので、でたらめ以外の何物でもない。故に、学問をするというのはまさしく礼法に則る事である。あの師は身をもって衆の模範となり、しかもみずからその境地に安住することを貴重としている者である。詩に「自分の意識しない不知不識の裡に、おのずから天の法則にしたがっている」と述べているのは、この事を言ったのである。

出典 藤井 専英(2018)『新釈漢文大系 5 荀子 上』29 版. 明治書院, p71-73.

樂論

音楽発生の原由とその効果を述べて墨子の非楽説を反駁し、楽の人心に対する感化力の偉大性から、正楽と邪音とを判別すべき事、且つ音楽は天地万物に象って制定されたものであるから、これに依る時は必然的に王道政治は達成される事を述べる。礼記楽記篇・史記楽書は、本篇を採って綴られたものであろう。(藤井 2018)

且樂者、先王之所以飾喜也;軍旅鉞者,先王之所以飾怒也。先王喜怒皆得其齊焉。是故喜而天下和之,怒而暴亂畏之。先王之道,禮樂正其盛者也。而墨子非之。故曰:墨子之於道也,猶瞽之於白黑也,猶之於清濁也,猶欲之楚而北求之也。

さらに音楽は古の聖王がその喜びの心を修飾するためのものであり、軍隊と鉄鉞は古の聖王が悪に対する怒りの心を修飾するためのものである。古の聖王の喜怒は悉く皆その中正を得たものであるから、聖玉が喜べは天下中の人がこれに和して喜び、聖王が怒れば乱暴者でもこれを畏れたのである。故に古の聖王の道は礼楽をもって最も盛大なものと言うべきである。それであるのに、墨子はこれを非議するのである。故にこれを評して言うなら、「墨子が真実の道に対する見方は、ちょうど、めくらが白黒の色に対するが如く、つんぼが清濁の音に対するが如く、また南の楚国に行こうとして北方に途を求めるようなもの」とも言うべきもので、まことに愚かなことである。

出典 藤井 専英(2018)『新釈漢文大系 5 荀子 下』27 版. 明治書院, p595-599.

、玉、瑤、珠,不知佩也,雜布與帛,不知異也。閭娵子奢,莫之媒也;母力父,是之喜也。以盲為明,以為聰,以危為安,以吉為凶。嗚呼!上天!曷維其同!

『淮南子』

出典 『中國哲學書電子化計劃』 https://ctext.org/huainanzi/yuan-dao-xun/zh

原道訓

夫建鐘鼓,列管弦,席旃茵,傅旄象,耳聽朝歌北鄙靡靡之樂,齊靡曼之色,陳酒行觴,夜以繼日,強弩弋高鳥,走犬逐狡兔,此其為樂也。炎炎赫赫,然若有所誘慕,解車休馬,罷酒徹樂,而心忽然,若有所喪,悵然若有所亡也。是何則?不以樂外,而以外樂。樂作而喜,曲終而悲。悲喜轉而相生,精神亂營,不得須臾平。察其所以,不得其形,而日以傷生,失其得者也。是故不得於中,稟授於外而以自飾也。不浸於肌膚,不浹於骨髓,不留于心志,不滯于五藏。故從外入者,無主於中,不止;從中出者,無應於外,不行。故聽善言便計,雖愚者知之;稱至德高行,雖不肖者知慕之。之者,而用之者鮮;慕之者多,而行之者寡。所以然者何也?不能反諸性也。夫不開于中而強學問者,不入於耳而不著於心,此何以異於者之歌也!效人為之而無以自樂也。聲出於口,則越而散矣。夫心者,五藏之主也,所以制使四支,流行血氣,馳騁於是非之境,而出入於百事之門者也。是故不得於心,而有經天下之氣,是猶無耳而欲調鐘鼓,無目而欲喜文章也。亦必不勝其任矣!

いったい、鐘・鼓・管・弦などの楽器をつらね、毛の敷物をしき、象牙をつるした旗をたて、耳には朝歌(紂の都)や北鄙(北方の邑)の官能的な楽曲をきき、なまめかしい美女をつらね、酒をおき觴(さかずき)をめぐらせて、酒宴にあけくれ、また、強弓でもって天空高く飛ぶ鳥を射とめ、猟犬を走らせて兎を追う。これらの楽しみたるや、まことに豪華絢爛であって、思わずも誘惑され勝ちである。しかし、車をとめ馬を休め、酒宴をおえ奏楽をやめれば、心はたちまち消え入るようなむなしさに襲われ、がっくりとして放心したような状態におちいるものである。何となれば、内なる心によって外を楽しませるのではなく、外物によって内を楽しませようとするからである。

奏楽が始まると喜び、終わると悲しむというように、悲喜こもごも生じ、そのために精神はかき乱されて、しばらくも平静であることがない。その原因をたずねるに、楽しみがその形を得られないために、〔焦燥して〕日に日に生を傷つけ、〔外によらずして〕すでに得ているはずのもの(内なる自得)を喪失するからである。そこで、自身において、中に自得することができず、外から楽しみを与えられて自らを飾ろうとする場合、〔このような借りものの楽しみは、〕肌膚にもしまず、骨髄にも行きわたらず、心志にも五臓にも滞留することがない。つまり外から入るものは、中に主人がいなければとどまりようがなく、中から出るものは、外に応ずるものがなければ行われないのである。

立派な言葉、当を得たはかりごとを聞けば、愚者といえどもこれをよろこび、至徳高行によって称賛されることとなれば、不肖のものであっても、これを慕う。ところが、これをよろこぶ者は多いが、さてこれを用いる者は少なく、これを慕う者は多いが、さてこれを行う者は少ない。そのわけは、〔世人の多くは〕その本性に立ち返ることができないからである。そもそも、内なる心をとざしたままで強いて学問をしても、耳に入るだけで心にとどまるはずはない。これでは、聾者の歌うのと同じであって、つまり見真似で歌っても、自分自身楽しむこともなく、声は口から出たとたんに、散り散りになってしまう。いったい、心は五臓の主であって、四肢を統御し、血気を流行させ、是と非を分別し、百事に関与するきっかけとなるものである。そこで心に自得することがなくて、天下を治めようとの気概をもつのは、たとえば、耳がないのに鐘鼓をかきならそうとし、目がないのに色どりをたのしもうとするようなもので、到底その任にたえることではない。

出典 楠山春樹(1993)『新釈漢文大系 54 淮南子(上)』12 版. 明治書院, p69-72.

形訓

凡地形,東西為緯,南北為經,山為積德,川為積刑,高者為生,下者為死,丘陵為牡,溪穀為牝。水圓折者有珠,方折者有玉。清水有金,龍淵有玉英。土地各以其類生,是故山氣多男,澤氣多女,障氣多,風氣多,林氣多,木氣多傴,岸下氣多腫,石氣多力,險阻氣多,暑氣多夭,寒氣多壽,穀氣多,丘氣多狂,衍氣多仁,陵氣多貪。輕土多利,重土多遲,清水音小,濁水音大,湍水人輕,遲水人重,中土多聖人。皆象其氣,皆應其類。故南方有不死之草,北方有不釋之冰,東方有君子之國,西方有形殘之尸。寢居直夢,人死為鬼,磁石上飛,雲母來水,土龍致雨,燕雁代飛。蛤蟹珠龜,與月盛衰,是故堅土人剛,弱土人肥,土人大,沙土人細,息土人美,毛土人醜。食水者善遊能寒,食土者無心而慧,食木者多力而

𡚤𡚤,食草者善走而愚,食葉者有絲而蛾,食肉者勇敢而悍,食氣者神明而壽,食穀者知慧而夭。不食者不死而神。

そもそも地の形は、東西を緯と称し、南北を経と称する。山は積徳であり、川は積刑である。高い所は生であり、低い所は死である。丘陵は牡であり、谿谷は牝である。

川がまるく流れる所には珠があり、四角にまがって流れる所には玉がある。清水からは黄金が出、龍のすむ淵からは玉英が出る。

土地は各々その地に類似したものを産出する。だから山気のあるところには男が多く、沢気のあるところには女が多い。水気のあるところには者が多く、風気のあるところには聾者が多い。林気のあるところには者が多く、木気のあるところには傴者が多い。岸下の気(湿気)のあるところには者(脚気の類)が多く、石の気のあるところには力持ちが多く、険阻の気のあるところには者(こぶのある人)が多い。暑気のあるところには夭折する者が多く、寒気のあるところには長生きする者が多い。谷の気のあるところには身体の麻痺する者が多く、丘の気のあるところには者(僂者)が多い。衍(平広)の気のあるところには仁者が多く、陵の気のあるところには強欲な者が多い。軽土のところには利発な者が多く、重土のところには遅鈍な者が多い。清流のほとりの人は声が小さく、濁流のほとりの人は声が大きい。急流のほとりの人は軽やかになり、流れの遅いところの人は重々しくなる。中土には聖人が多く輩出する。〔上述のことは、〕人はすべて、それぞれ住むところの気に似、それぞれその種類に感応することを

示すものである。そこで、南方には枯死しない草が生え、北方にはとけない氷があり、東方には君子の国があり、西方には形残の尸があって、寝てもさめても夢をみつづけ、死ねば鬼となる。磁石はものを上にすいあげ、雲母は水をもたらし、土龍は雨をよび、燕と雁とは春秋かわるがわるに渡ってくる。蛤・蟹・真珠・亀は、月の満ち欠けに随って盛衰する。かくして堅土の地では人は剛毅になり、弱土の地では人は脆弱になる。土(あらつち)の地では人は大まかになり、沙土のところでは人は繊細になる。肥えた土地では人は美しくなり、やせた土地では人は醜くなる。

水を食む者は、およぐことがたくみでよく寒にたえ、土を食む者は、心もなく息もしない。木を食む者は、力が強く、大きい。草を食む者は、走ることはたくみであるが、愚かである。葉を食む者は、糸をはいて蛾になる。肉を食む者は、勇敢でかつ精悍である。気を食む者は、精神は聡明で長寿である。穀物を食む者は、知恵はすぐれているが、短命である。なにも食まない者は不死であって、神霊をもつ。

出典 楠山春樹(1993)『新釈漢文大系 54 淮南子(上)』12 版. 明治書院, p214-218.

1. つかれる。やむ。 2. きとく。病がおもい。 3. 老いる 4. せむし 5. 小便の通じない病。

尸 1. しかばね。 2. 身をふせ手足をのべる。 3. さらす。しかばねをつらね示す。 4. つらねる。

5. 陣する。陣。 6. かたしろ. など。

1. 黒くあらい土。 2. 黄黒色の土。 3. あらい土。 など。

沙 1. すな。まさご。いさご。 2. すなはら。さばく。すな地で水や草のない荒原。 3. すなだつ。

すながまきあがる。 4. みぎは。はま。水邊の地。 5. 水田。 6. 小数の名。小数点以下第 8 位。

1 の 1 億分の 1。 7. 小さくてうまいものに冠する語。沙糖・沙瓜の類。 8. うれすぎ。過度に熟したもの。 など。

出典 諸橋轍次(2000)『大漢和辞典』(鎌田正, 米山寅太郎, 修訂増補)大修館書店.

主術訓

禹決江疏河,以為天下興利,而不能使水西流;稷辟土墾草,以為百姓力農,然不能使禾冬生。豈其人事不至哉?其勢不可也。夫推而不可為之勢,而不修道理之數,雖神聖人不能以成其功,而況當世之主乎!夫載重而馬羸,雖造父不能以致遠;車輕馬良,雖中工可使追速。是故聖人舉事也,豈能拂道理之數,詭自然之性,以曲為直,以屈為伸哉!未嘗不因其資而用之也。是以積力之所舉,無不勝也,而智之所為,無不成也。者可令嚼筋,而不可使有聞也;者可使守圉,而不可使言也。形有所不周,而能有所不容也。是故有一形者處一位,有一能者服一事。力勝其任,則舉之者不重也;能稱其事,則為之者不難也。毋小大修短,各得其宜,則天下一齊,無以相過也。聖人兼而用之,故無棄才。人主貴正而尚忠,忠正在上位,執正營事,則讒佞奸邪無由進矣。譬猶方員之不相蓋,而巨直之不相入。夫鳥獸之不可同群者,其類異也;虎鹿之不同遊者,力不敵也。是故聖人得志而在上位,讒佞奸邪而欲犯主者,譬猶雀之見而鼠之遇狸也,亦必無餘命也。

聾者は弓弦を治めさせることは出來るが、耳を使ふ仕事はさせられない。唖者は圉(ぎょ)を守らせることは

出來るが、口を使ふ仕事はさせられない。これは形體材能が普遍的に發達して居ないからである。それ故、一藝ある者は一位に處り、一能ある者は一事に服する。力が其の任に勝へれば負擔(ふたん)が重くはないし、能が其の事に稱(たた)へば仕事が困難ではない。小大長短各其宜しきを得れば天下の人は皆一齊で優り劣りはない。聖人は小大長短を兼ね用ひるから、世に棄才がないのである。

出典 小野 機太郎(1925)『支那哲学叢書第 10 淮南子 : 現代語訳』支那哲学叢書刊行会, p182-183.

聾には弓に巻く動物の筋を打たせるがよく、音を聞く職はまかされぬ。唖には厩の番をさせるがよく、もの言う職はまかされぬ。形体不全で、技能の及ばぬ方面がある故である。さてこそ、形体に応じて地位を占め、技能に応じて職に服する。力量がその任に耐えれば、荷は軽い。技能がその職に適えば、仕事はやすい。オの大小長短を問わず、各自が適所にはまれば、天下はすなわち斉一であって、逸脱は起こりえぬ。聖人がこれを併せ用いて、さて、世に無用の人材なし。

出典 戸川 芳郎, 木山 英雄, 沢谷 昭次(1974)『中国古典文学大系 第 6 巻 淮南子・説苑(抄)』平凡社, p104.

聾者には弓の弦を作る仕事なら任せられるが、耳を使う仕事は任せられない。唖者には厩を守る仕事は任せられるが、ものを言う仕事は任せられない。それは、その形体が不備であって、その能力に用い難いところがあるからである。こうして、その形体と、その能力とに応じて、その地位と、その職務とは分担される。その任務に耐えるだけの力量があれば、行う者はそれを負担には感じないものであり、またその仕事に適うだけの能力があれば、為す者は、それを困難とは感じないものである。才能の大小長短を問わず、すべてがその適所に落ち着けば、天下は斉一となり、優劣の別はなくなる。聖人は、すべての者を漏れなく用いるから、天下に棄才はない。〔いかなる才能も、それなりにところを得る。〕

出典 楠山春樹(1993)『新釈漢文大系 55 淮南子(中)』10 版. 明治書院, p415-419.

山訓

人不小學,不大迷;不小慧,不大愚。人莫鑒於沫雨,而鑒於澄水者,以其休止不蕩也。詹公之釣,千之鯉不能避;曾子攀柩車,引楯者為之止也;老母行歌而動申喜,精之至也;瓠巴鼓瑟,而淫魚出聽;伯牙鼓琴,駟馬仰秣;介子歌龍蛇,而文君垂泣。故玉在山而草木潤,淵生珠而岸不枯。無筋骨之強,爪牙之利,上食晞,下飲泉,用心一也。清之為明,杯水見眸子;濁之為暗,河水不見太山。視日者眩,聽雷者;人無為則治,有為則傷。無為而治者,載無也;為者,不能有也;不能無為者,不能有為也。人無言而神,有言則傷。無言而神者載無,有言則傷其神。之神者,鼻之所以息,耳之所以聽,終以其無用者為用矣。

人は、〔なまじに〕小さな覚りなどなければ、大いに迷うことはなく、小賢しい智恵などなければ、大愚をしでかすことはないのだ。

人が雨水の流出する水たまりを鏡とせず、澄んだ水面を鏡にするのは、その水面が休止して動かないからである。

詹公(詹何 せんか、魚釣りの名人)が釣りをすると、先年の鯉も釣り上げられてしまう。曾子が、霊柩車に取りすがって泣けば、車を引く者は、その為に引く手を休めた。〔行方の知れなかった〕老母が、〔乞食となって〕道に歌うと、〔その子〕申喜を感動させ〔母子の邂逅となっ〕た。いずれも精魂の至りだからである。

瓠巴が瑟を奏でれば、水に遊ぶ魚も、顔を出して聞き入る。爪牙が琴を奏でれば、馬車引く馬さえ頭を上げて喜ぶ。介子が龍蛇の歌を歌えば、晋の文公も、〔昔を思って〕涙を流す。つまり玉が山に在れば、〔その陰気によって〕草木を潤し、真珠が深淵に生ずると、〔その陽気によって〕岸辺〔の草木〕は枯れない〔ようなものである〕。

みみずは強い筋骨や鋭い爪牙を持たないが、上は乾いた表土を食らい、下は黄泉の水を飲む。心を用いることが専一だからである。

澄んだ水の明るさといえば、杯盤に張った水にも眸がうつる。濁った水の暗さといえば、黄河の水にも泰山の影を見ない。

日の光を視る者は目がくらみ、雷の音を聴く者は耳嗚りが止まない。

人が、無為であれば万事うまくいくが、なにかを為そうとすると差し障りが生じる。無為であれば万事うまくいくというのは、「無」を体しているからである。なにかを為そうとする者は、無為ではいられない。無為でいられないような者は、何事かを為し遂げることはできないのである。人は、無言でいれば神〔に通じること〕を得るが、何事か喋ってしまうと、差し障りが生ずるのである。無言であって神〔に通じること〕を得るのは、そこに無を体しているからである。何事か喋ってしまえば、その神を損なってしまう。この〔精〕神なるものは、〔例えば〕鼻が息をするよすが(鼻孔)、耳が音を聴くよすが(耳孔)であって、とどのつまり〔有形の鼻や耳は〕その無用(鼻孔耳孔の空虚)のところを用としているのである。

出典 楠山春樹(1994)『新釈漢文大系 62 淮南子(下)』5 版. 明治書院, p894-897.

林訓

椎固有柄,不能自;目見百之外,不能自見其眥。狗不擇甌而食,肥其體而顧近其死。鳳皇高翔千仞之上,故莫之能致。月照天下,蝕于詹諸。騰蛇遊霧,而殆於蛆。鳥力勝日,而服於禮,能有修短也。莫壽於殤子,而彭祖為夭矣。短不可以汲深,器小不可以盛大,非其任也。怒出於不怒,為出於不為。視於無形,則得其所見矣;聽於無聲,則得其所聞矣。至味不慊,至言不文,至樂不笑,至音不叫,大匠不斫,大豆不具,大勇不鬥,得道而德從之矣。譬若鍾之比宮,太簇之比商,無更調焉。以瓦者全,以金者跋,以玉者發,是故所重者在外,則為之掘。逐獸者目不見太山,嗜欲在外,則明所蔽矣。聽有音之音者,聽無音之音者聰;不不聰,與神明通。

椎はもとより柄が付いているが、自らをたたくことはできない。目は百歩以上の遠くをも見ることができるが、自らその目のふちを見ることはできない。

犬や豚は食器を択ばずに食らい、軽々しくその体をふとらせるが、かえって〔食用としての〕死に近づいてしまう。

鳳皇は千仞の上を飛翔するので、誰も鳳皇をまねきよせることはできない。

月は天下を照らすが、ひき蛙には侵食される。騰蛇(龍の一種)は霧の中を遊泳するが、蛆(虫名)には

おびやかされる。烏の力は太陽にまさるが、礼(鳥名)をおそれる。能力に長短があるからである。

〔相対の世界を超えた立場に立てば〕殤子(二十歳をまたずに死んだ子)ほどに長命なものはなく、〔七百歳の命を保ったという〕彭祖は若死にということになる。

短いつるべ縄では〔井戸の〕深い水を汲むことができず、器の小さいものには大きな量を盛ることができない。その任ではないからである。

怒りは怒らぬ状態から出る。為すことは為さぬ状態から出る。〔有は無から出る。〕

形の無いところに目を注げば、見ようとするものすべてが見え、声の無いところに耳を傾ければ、聞こうとするものすべてが聞こえる。

最高の味は〔淡白で〕物足らず、最高のことばはかざらず、最高の音楽はさわがしくない。偉大な工匠はけずらず、偉大な料理人は割かず、偉大な勇士はたたかわない〔で敵を心服させる〕。

道を得れば、徳は〔自然と道に付随して〕そなわってくる。たとえば黄鐘の律に〔五音の〕宮の音階が比定されると、太簇の律にはおのずと商の音階が比定され、音調を改める必要がないようなものである。

瓦をかけて「」の遊びをするものは平然としているが、黄金をかけて「」の遊びをするものはよろめき、宝玉をかけて「」の遊びをするものは暴発する。つまり貴重と考えるものが自己の外にあると、内なる心はそのために畏縮し動揺するものである。

けものを追いかけるものには泰山の大も目に入らない。〔獲物をねらう〕欲望が外にあると、内なる聡明がおおわれてしまうからである。

有音の音を聞くものは聾(無知のもの)である。無音の音を聞くものは聡である。聾でもなく聡でもないものが、神明とかよいあう。

出典 楠山春樹(1994)『新釈漢文大系 62 淮南子(下)』5 版. 明治書院, p955-960.

芻狗能立而不能行,蛇床似麋蕪而不能芳。謂許由無德,烏獲無力,莫不醜於色。人莫不奮於其所不足。以兔之走,使犬如馬,則逮日歸風;及其為馬,則又不能走矣。冬有雷電,夏有霜雪,然而寒暑之勢不易,小變不足以妨大節。帝生陰陽,上駢生耳目,桑林生臂手,此女所以七十化也。終日之言,必有聖之事;百發之中,必有羿、逢蒙之巧。然而世不與也,其守節非也。牛蹄顱亦骨也,而世弗灼,必問吉凶於龜者,以其久矣。近敖倉者,不為之多飯;臨江河者,不為之多飲;期滿腹而已。蘭芝以芳,未嘗見霜;鼓造辟兵,壽盡五月之望。舌之與齒,孰先也?錞之與刃,孰先弊也?繩之與矢,孰先直也?今之與蛇,蠶之與相類而愛憎異。晉以垂棘之璧得虞、,驪戎以美女亡晉國。者不謌,無以自樂;盲者不觀,無以接物。觀射者遺其𠙜𠙜,觀書者忘其愛。意有所在,則忘其所守。

芻狗(藁の犬)は立つことはできるが、歩行することはできない。蛇床(はまぜり)は麋蕪(川せんきゅう の葉)に似てはいるが、芳しいというわけにはいかない。

許由は徳がなく、烏獲は力がないと発言すれば、〔聞いた者は〕顔色を変えて恥じないものはいない。人は自分の足らない部分に発奮しないものはいない。

兎がよく走ることから、もし大きさを馬ほどにしたならば、太陽に追いつき風を追うことであろう〔と考える〕。〔しかし実際に〕兎が馬になってしまえば、やはりよく走ることはできないのだ。

冬に雷電が鳴り、夏に霜雪が降りても、寒暑の大勢に変わりはない。小変はそれによって大節〔四季の推移

する大筋〕を妨害するほどのものではないのである。

黄帝が陰陽(男女の性器)を作り、上駢(神名)が耳と目とを作り、桑林(神名)が臂と手とを作った。〔このように人体の各部は多くの神々によって作りだされたのであって、〕これこそ女が七十回も造化を繰り返した理由である。

一日中しゃべっている間には、必ず聖人にかなう発言もあろう。矢を百回発射する中には、必ず羿や逢蒙〔などの名人〕並みの射もあろう。しかし、それでも世問がとりあおうとしないのは、真に節を守ってのことではないからである。

牛のひづめや豚の頭も骨ではあるが、世人はこれを灼いて占うことはしない。吉凶を占うのに必ず亀甲を用いるのは、その歴史が久しいからである

敖倉(始皇時の敷山の穀倉)の付近に住む人も、それだからといって多く食べはしない。江河(長江や黄河)のほとりに住む人も、それだからといって多く飲みはしない。腹一杯になることを望むだけである。

蘭(ふじばかま)や正(よろいぐさ)は芳草なるがため〔秋までには摘みとられ〕、いまだ霜を見たことがない。鼓造(ふくろう、一説に蝦蟇)は〔これのスープを飲むことによって〕兵仭を免れるが、そのために五月の望(十五日)にはとり尽くされてしまう。

舌と歯とでは、どちらが先にすりへるか。〔堅い歯が柔軟な舌より先にすりへる。〕錞(いしづき)と刃とでは、どちらが先に破損するか。〔先端にあって危難をおかす刃が後位にある錞より先にこわれる。〕墨縄と矢とでは、どちらが先に(より正確に)直線を示すだろうか。〔曲である縄が直である矢より真直を示す。〕

いま(うなぎ)と蛇、蚕と(いもむし)とは、形状は互いに類似しているが、〔食用となる蝉と糸をはきだす蚕は愛され、蛇とは憎まれるというように〕愛憎は異なってくる。

晋国は垂棘の璧〔を虞国に贈って軍隊を通過させたこと〕によって、虞国と国とを得た。驪戎(西方のえびす)は美女〔驪姫を晋の献公に献じたこと〕によって、晋国を〔四世にわたって〕乱し続けた。

聾者が歌わないのは、それで自分が楽しむことがないからである。盲人が見物しないのは、それで外物に接することがないからである。

射を見物している者は自身の仕事を忘れ、書を鑑賞している者は自分の愛するものをも忘れてしまう。心がひとところにとどまると、内に守るべきものが忘れ去られてしまうのである。

出典 楠山春樹(1994)『新釈漢文大系 62 淮南子(下)』5 版. 明治書院, p966-971.

一目之羅,不可以得為鳥;無餌之釣,不可以得魚;遇士無禮,不可以得賢。兔絲無根而生,蛇無足而行,魚無耳而聽,蟬無口而鳴。有然之者也。鶴壽千,以極其遊;蜉蝣朝生而暮死,而盡其樂。紂醢梅伯,文王與諸侯構之;桀辜諫者,湯使人哭之。狂馬不觸木,狗不自投於河,雖蟲而不自陷,又況人乎!愛熊而食之鹽,愛獺而飲之酒,雖欲養之,非其道。心所,毀舟為;心所欲,毀鍾為鐸。管子以小辱成大榮,蘇秦以百誕成一誠。質的張而弓矢集,林木茂而斧斤入,非或召之,形勢所致者也。

一目だけの網では、鳥を得ることはできず、餌をつけない釣では、魚を得ることはできない。士大夫を遇するに礼を欠けば、賢者を得ることはできない。

兎糸(ねなしかずら)は根がなくて生じ、蛇は足がなくて行き、魚は耳がなくて聴き、蝉は口がなくて鳴く。このようにさせるものがあるからである。

鶴は千歳を寿命として、その遊びを終わらせ、蜉蝣(かげろう)は朝に生まれて暮に死ぬが、その楽しみを尽くす。

紂は梅伯を塩づけの刑にしたので、文王は諸侯とともに〔討紂を〕謀り、架が諫め言をした者を処罰したので、湯は人をやって弔わせた。

狂った馬も木には接触せず、狂犬も自ら河に身投げはせず、愚かな虫すら自ら〔穴に〕落ちはしない。まして人においてはなおさら〔自分を傷つけるようなことはしないもの〕である。

熊をいつくしんで塩を食べさせ、獺(かわうそ)をいつくしんで酒を飲ませる。愛養するつもりであっても、その道にはずれている。

心の悦ぶところとあれば舟を毀してまで(舵)を作り、心の欲するところとあれば鐘を毀してまで鐸をつくる。

管子(管仲)は小さな屈辱から大きな栄誉を成し、蘇秦は百もの虚誕で一つの誠を成し遂げた。

射的が張られて弓矢が集まり、林に木が茂って斧斤(おの)が入れられる。招くものがあるのではなく、形勢がそうさせるのである。

出典 楠山春樹(2018)『新釈漢文大系 62 淮南子(下)』11 版. 明治書院, p1003(207)-1005(209).

脩務訓

世俗廢衰,而非學者多。「人性各有所修短,若魚之躍,若鵲之駁,此自然者,不可損益。」吾以為不然。夫魚者躍,鵲者駁也,猶人馬之為人馬,筋骨形體,所受於天,不可變。以此論之,則不類矣。夫馬之為草駒之時,跳躍揚蹄,翹尾而走,人不能制,齧咋足以肌碎骨,蹶蹄足以破顱陷匈;及至圉人擾之,良御教之,掩以衡扼,連以轡銜,則雖險超塹弗敢辭。故其形之為馬,馬不可化;其可駕御,教之所為也。馬,蟲也,而可以通氣志,猶待教而成,又況人乎!且夫身正性善,發憤而成仁,帽憑而為義,性命可,不待學問而合於道者,堯、舜、文王也;湎耽荒,不可教以道,不可以德,嚴父弗能正,賢師不能化者,丹朱、商均也。曼頰皓齒,形誇骨佳,不待脂粉芳澤而性可者,西施、陽文也;𦝢𦝢戚施,雖粉白黛黑弗能為美者,母、也。夫上不及堯、舜,下不及商均,美不及西施,惡不若母,此教訓之所諭也,而芳澤之所施。且子有弑父者,然而天下莫疏其子,何也?愛父者也。儒有邪辟者,而先王之道不廢,何也?其行之者多也。今以為學者之有過而非學者,則是以一飽之故,穀不食,以一之難,輟足不行,惑也。

世俗が荒廃するにつれて学習を〔無益のしわざとして〕非難する輩が多くなった。〔彼等は〕人の本性にはそれぞれ得意とするもの、苦手とするものがあって、〔それは〕あたかも魚が淵に躍り、鵲(かささぎ)の羽が斑であるようなもの、こうした自然のさまは、〔人力によって〕益すことも減らすこともできないという。しかし私は、そうではないと考える。いったい魚が淵に躍り、鵲の羽が斑であるのは、人と馬とが、〔おのずからに〕人と馬とであるのと同じこと、筋骨形体は天賦のものであるから、これを変えることはできない。この点から論ずれば、〔人と馬とは、確かに〕別類なのである。いったい若駒が草原に放たれたままのときには、跳躍して蹄を高く掲げたり尾を振り回して疾走し、人はこれを制することができない。人を嚙めば肌を通して骨をも砕くほどであり、蹴れば頭の骨を割り、胸をつぶすに十分である。〔ところが〕圉人(うまかい)が飼い

馴らし、良い御者が調教し、衡(くびき)をかけ、轡(たづな)や銜(くつわ)を付ければ、険しい道を行き、

(ほり)を飛び超えることも決していやがらないのだ。つまり馬の形態そのものは変えることはできないが、人の思いのままに駆使することができるのは、調教の結果である。馬は人語を解しない動物であるが、人と気心を通わすことができ、調教によって役に立つようになる。まして人間ならばなおさらのことだ。

そもそも身正しく品性が善で、発憤して行えば〔おのずから〕仁を成し、慷慨して行えば〔おのずから〕義にかない、天性として人に喜ばれるものを具え、学問を待つことなくして逍に合するのは、堯・舜・文王である。酒色に溺れて心は荒み、道を教えることも、徳を諭すこともできず、厳父も規正し得ず、賢師も教化し得ないのは、丹朱・商均である。ふくよかな頬に皓(しろ)い歯、容姿は端麗で、脂粉や香油を用いなくても、生まれながらに人を悦ばせるのは、西施・陽文である。顔は醜く、大きな口は歪み、腰は曲り、背はねこ背、いくら粉白や黛黒(まゆずみ)でよそおっても美しくならないのは、母・である。いったい上品という点では堯・舜に及ばず、下品という点で商均ほどではない、美においては西施に及ばず、醜において母ほどではない。〔上下の中間にある者は〕教訓によって導くことができ、化粧によって美しくすることができるのである。

また、子の中には父を弑する者もあるが、しかし〔そうかといって〕世の父親にその子を遠ざけようとする者がいないのは何故であろうか。それは父を愛する者の方が多いからである。儒者の中には邪辟な者もいるが、しかし〔そうかといって〕先王の道が廃れないのは何故であろうか。それは先王の道を実行する者の方が多いからである。いま、学問をする者に過失があるからといって、学ぶこと自体を非難するのは、一度噎(む)せたために食事を絶ち、一度躓いたために歩行をやめるようなもの、愚かなことである。

出典 楠山春樹(2018)『新釈漢文大系 62 淮南子(下)』11 版. 明治書院, p1132(336)-1139(343).

泰族訓

者,耳形具而無能聞也;盲者,目形存而無能見也。夫言者,所以通己於人也;聞者,所以通人於己也,者不言,者不聞,既,人道不通。故有之病者,雖破家求醫,不顧其費,豈獨形骸有哉!心志亦有之。夫指之拘也,莫不事申也;心之塞也,莫知務通也;不明於類也。夫觀六藝之廣崇,窮道德之淵深,達乎無上,至乎無下,運乎無極,翔乎無形,廣于四海,崇於太山,富於江河,曠然而通,昭然而明,天地之間無所系,其所以監觀,豈不大哉!人之所知者淺,而物變無窮,曩不知而今知之,非知益多也,問學之所加也。夫物常見則識之,嘗為則能之,故因其患則造其備,犯其難則得其便。夫以一世之壽,而觀千之知,知今古之論,雖未嘗更也,其道理素具,可不謂有術乎!人欲知高下而不能,教之用管準則;欲知輕重而無以,予之以權衡則喜;欲知遠近而不能,教之以金目則快射。又況知應無方而不窮哉!犯大難而不懾,見煩繆而不惑,晏然自得,其為樂也,豈直一之快哉!

夫道,有形者皆生焉,其為親亦戚矣;享穀食氣者皆受焉,其為君亦惠矣;諸有智者皆學焉,其為師亦博矣。射者數發不中,人教之以儀則喜矣,又況生儀者乎!人莫不知學之有益於己也,然而不能者,嬉戲害人也。人皆多以無用害有用,故智不博而日不足,以鑿觀池之力耕,則田野必辟矣;以積土山之高修堤防,則水用必足矣;以食狗馬鴻雁之費養士,則名譽必榮矣;以弋獵博之日誦《詩》讀《書》,聞識必博矣。故不學之與學也,猶之比於人也。凡學者能明于天下之分,通於治亂之本,澄心清意以存之,見其終始,可

謂知略矣。天之所為,禽獸草木;人之所為,禮節制度。構而為宮室,制而為舟輿是也。治之所以為本者,仁義也;所以為末者,法度也。凡人之所以事生者,本也;其所以事死者,末也。本末,一體也;其兩愛之,一性也。先本後末,謂之君子;以末害本,謂之小人。君子與小人之性非異也,所在先後而已矣。草木之性,洪者為本,而殺者為末;禽獸之性,大者為首,而小者為尾。末大於本則折,尾大於要則不掉矣。故食其口而百節肥,灌其本而枝葉美,天地之性也。天地之生物也有本末,其養物也有先後,人之於治也,豈得無終始哉!

いったい聾者は耳の形は具わっているが聞くことはできず、盲人は目の形は残っているが見ることはできない。そもそも言うとは自分の意向を人に伝達するためのものであり、聞くとは人の意向を自分が受けとるためのものである。唖者はもの言えず、聾者は耳が聞こえない。唖であるうえに聾であれば、人間らしい営みはできないことになる。それゆえ聾唖の病がある者は、家を破産させても医者を求めて費用を顧みないのである。しかし肉体にだけ聾唖があるのだろうか。〔実は〕精神にもあるのだ。いったい指が曲っていたら伸びるよう努力しないものはないのに、心が閉塞して〔物事の道理が通じない状態に〕いても、通じるよう努力すべきことを知らない。これというのも、事の軽重がわからないからである。

そもそも六芸の高大を観察し、道徳の深淵をきわめれば、はてしない高みに達し、限りない深みにいたり、極まりないはてをめぐり形体なき世界を飛翔し、四海よりも広く、泰山よりも高く、江河よりも豊かで、広々と通じ、あかあかと照し、天地の中に〔わが心に〕そむくものがない。そこでながめられるものは、何と大なることであろう。人知の及ぶ所は浅く、物の変化は窮まりない。以前は知らなかったことを今知ったのは、知力がましたのではない。学問によって加えられたのである。

さて物ごとは常に見ていればそれを記憶し、いつも行っていればそれに習熟する。それゆえ災患に苦しめばその備えができ、困難を犯していけば〔難にかからぬ〕便法を得られるようになる。そもそも一代限りの命で千年にわたる知識や古今の議論を見わたせ、経験していなくても道理が具備できるというのは、術(特別な手だて)があるからといわねばならぬ。人が高低を知ろうとしてかなわぬ時、水もりの使用を教えてやれば喜ぶ。軽重を知ろうとして手だてがない時、さおばかりをあたえてやれば喜ぶ。遠近を知ろうとしてかなわぬ時、金目(測量法)を教えてやればうれしく思う。ましてや無方〔いずれの方角)に応じても窮まることがない〔てだて〕をわきまえられるとなればなおさらである。大難を犯しても恐れず、煩雑を見ても惑わされず、落着いて自得すれば、その楽しみは、並の愉快さではないのである

そもそも道は、形をもつものすべてがそこ力ら生れ出るのであって、つまり親として〔とりわけて〕戚(した)しい親なのである。穀物を食べ空気を吸うものすべてがそこから〔穀物や空気を〕受けるのであって、つまり君としても〔とりわけて〕恵み深い君なのである。種々の智恵ある者すべてがそこから学ぶのであって、つまり師としても〔とりわけて〕博識の師なのである。

射手が何度射てもあたらない時、人がうち方を教えれば喜ぶ。ましてそのうち方の出てくる道理〔を教える〕となればなおさらである。学問が自分に有益であることを知らぬ者はいない。しかし学問に励めないのは、娯楽が人を誘惑妨害するからである。人はみな無用なもので有用なものを害う。そこで知恵は博くならぬうちに日が不足してしまう。観池を掘るほどの努力で耕作すれば、田野は必ず開けるであろう。土山を積みあげるほどの高さに堤防をつくれば、水利は必ず十分になろう。犬馬や鴻雁を飼育するほどの費用で士をもてなせば、名声は必ず輝きわたろう。狩猟や賭博遊戯にふける時間を『詩』や『書』を読むのに費せば、見聞知識は必ず

博大になろう。つまり学問をするとしないとでは、聾唖者と常人の違いがあるのである。

すべて学ぶ者は、天人の関係を明察し、治乱の根本に通達し、心意を清澄の状態に維持して、事物の終始を見通せば、道の大略を知ったといえる。

天のしわざは禽獣・草木、人のしわざは礼節・制度、〔たとえば〕宮室を構築し、舟車を作製するといったことである。国を治めるのに根本として立てるのは仁義であり、末端として用いるのは法度である。すべて人を生かすことに努めるものが根本であり、死に至らしめることに努めるものが末梢である。根本と末梢は一体である。そしてその両者を共に愛するのが性である。根本を先にし末梢を後にするのを君子と言い、末梢によって根本を害なうのを小人と言う。君子と小人との性は異なっているのではない。ただいずれを先にし、いずれを後にするかによるだけなのである。

草木〔の本性〕は、太いのを根本とし、細いのを末梢とする。禽獣の本性は、大きいのを首とし、小さいのを尾とする。末端が根本より太ければ折れ、尾が腰より大きければ身動きがとれない。それゆえ口に食わせれば体中が肥え、根に水をかければ枝葉が美しくなる。天地が万物を生ずるには本末がある。また万物を養うには先後がある。人が統治を行うのに、どうして終始のないことがあろうか。かくて仁義こそは統治の根本なのである。

もし根本を修養すべきことを知らず、末端を治めることに努めれば、これは根をさしおいて枝に水をかけるようなものだ。そもそも法の発生は、仁義を補佐するためであった。もし法を重んじて仁義を棄てるなら、それは冠や履を貴んで頭や足を忘れるようなものである。仁義とは、基(自身)を厚くするに役立つものである。基の厚さを増さず〔領土の〕広さばかりを拡張しようとすれば崩壊する。その基を広げないで〔地位の〕高さばかりを増そうとすれば転覆する。趙政(秦の始皇帝)は徳を増さずに高さばかりを重ねようとしたから滅んだ。智伯は仁義を行わず領地の拡張ばかり努めたから亡んだ。『国語』にこのようにいう、「棟を大きくしなければ重さに堪えられない。重さでは国家にまさるものはない、棟となるべきものでは徳にまさるものはない。」

出典 楠山春樹(2018)『新釈漢文大系 62 淮南子(下)』11 版. 明治書院, 1225(429)-1232(436)

三国志

魏書 13 王朗傳

(裴松之による注)

豢又嘗從問左氏傳,禧荅曰:「欲知幽微莫若易,人倫之紀莫若禮,多識山川草木之名莫若詩,左氏直相斫書耳,不足精意也。」

豢因從問詩,禧齊,韓,魯,毛四家義,不復執文,有如諷誦。又撰作諸經解數十萬言,未及繕寫而得,後數病亡也。

魚豢もまた『左氏伝』について質問したことがあった。隗禧は答えて、「玄妙なことを知りたければ『易』にまさるものはない。人倫のおきては『礼』にまさるものはない。山川草木の名を多く知るのは『詩経』に

まさるものはない。『左氏』はただ切り張りの書物にすぎぬ。真面目に勉強するほどのことはない。」魚豢はついでに『詩経』について質問した。隗禧は斉・韓・魯・毛四家の学説を説明したが、書物を手に取らず朗誦している趣きがあった。また種々の経書の解釈数十万字を著述したが、浄書する前に聾になり、数年後病没した。

出典 井波 律子, 今鷹 真(1993)『正史 三国志 2 魏書II』ちくま学芸文庫, p518-519.

魏書 19 陳思王植傳

帝輒優文荅報。

(裴松之による注)

魏略曰:是後大發士息,及取諸國士。植以近前諸國士息已見發,其遺孤稚弱,在者無幾,而復被取,乃上書曰:「臣聞古者聖君,與日月齊其明,四時等其信,是以戮凶無重,賞善無輕,怒若驚霆,喜若時雨,恩不中,教無二可,以此臨朝,則臣下知所死矣。受任在萬里之外,審主之所以受官,必以之所投命,雖有構會之徒,泊然不以為懼者,蓋君臣相信之明效也。昔章子為齊將,人有告之反者,威王曰:

『不然。』左右曰:『王何以明之?』王曰:『聞章子改葬死母;彼尚不欺死父,顧當叛生君乎?』此君之信臣也。昔管仲親射桓公,後幽囚從魯檻車載,使少年挽而送齊。管仲知桓公之必用己,懼魯之悔,謂少年曰:『吾為汝唱,汝為和,聲和聲,宜走。』於是管仲唱之,少年走而和之,日行數百里,宿昔而至。至則相齊,此臣之信君也。臣初受封,策書曰:『植受茲青社,封于東土,以屏翰皇家,為魏藩輔。』而所得兵百五十人,皆年在耳順,或不踰矩,虎賁官騎及親事凡二百餘人。正復不老,皆使年壯,備有不虞,檢校乘城,顧不足以自救,況皆復耄耋罷曳乎?而名為魏東藩,使屏翰王室,臣竊自羞矣。就之諸國,國有士子,合不過五百人。伏以為三軍益損,不復賴此。方外不定,必當須辨者,臣願將部曲倍道奔赴,夫妻負襁,子弟懷糧,蹈鋒履刃,以徇國難,何但習業小兒哉?愚誠以揮涕增河,鼠飲海,於朝萬無損益,於臣家計甚有廢損。又臣士息前後三送,兼人已竭。惟尚有小兒,七八已上,十六七已還,三十餘人。今部曲皆年耆,在牀席,非糜不食,眼不能視,氣息裁屬者,凡三十七人;疲風靡,疣盲者,二十三人。惟正須此小兒,大者可備宿衞,雖不足以禦寇,粗可以警小盜;小者未堪大使,為可使耘穢草,驅護鳥雀。休候人則一事廢,一日獵則衆業散,不親自經營則功不攝;常自躬親,不委下吏而已。陛下聖仁,恩詔三至,士子給國,長不復發。明詔之下,有若皦日,保金石之恩,必明神之信,畫然自固,如天如地。定習業者並復見送,若晝晦,悵然失圖。伏以為陛下爵臣百寮之右,居藩國之任,為置卿士,屋名為宮,冢名為陵,不使其危居獨立,無異於凡庶。若柏成欣於野耕,子仲樂於灌園;蓬,原憲之宅也;陋巷單瓢,顏子之居也:臣才不見效用,常慨然執斯志焉。若陛下聽臣悉還部曲,罷官屬,省監官,使解璽釋,追柏成、子仲之業,營顏淵、原憲之事,居子臧之廬,宅延陵之室。如此,雖進無成功,退有可守,身死之日,猶松、喬也。然伏度國朝終未肯聽臣之若是,固當羈絆於世繩,維繫於祿位,懷屑屑之小憂,執無已之百念,安得蕩然肆志,逍遙於宇宙之外哉?此願未從,陛下必欲崇親親,篤骨肉,潤白骨而榮枯木者,惟遂仁德以副前恩詔。」皆遂還之。

帝はすぐにねんごろな文章で返答した。〔1〕

〔1〕『魏略』にいう。こののち若者を大いに徴発し、また諸国の人物を召集した。曹植は最近諸国の若者

が徴発されたばかりで、その残されたみなしごは幼弱であり、現存している人いくたりもいないのにまたも召集を受けたことから、上奏文をたてまつって述べた。

「臣が聞きますには、古代の聖天子は日や月とその明るさを等しくし、四季の変化と同じように信頼感があったとか。だからこそ、悪人を処刑する場合重すぎることはなく、善人を褒賞する場合軽すぎることはなく、怒ればはためくいかずちのごとく、喜べば時を得た雨のごとく、恩愛は中間で絶えることなく、相反する教令を二度出すことはありませんでした。このような態度で朝廷に臨みますから、臣下は死ぬべき場所をわきまえるのです。任務をになって万里の外におる場合、主君の授けられた官職を認識し、自分の命を投げ出す立場を貫きまして、告げ口をするやからがありましても平然として懸念を抱こうとしなかったのは、つまり君臣が信頼しあっていた明白な証拠でございます。

昔(戦国時代)、章子が斉の将軍となったとき、謀叛したと彼を密告する者がおりましたが、威王は『そんなことはない』と申しました。側近の者が『王にはどうしてそれをはっきりご存知なのですか』というと、王は『章子は死んだ母を〔父の墓所に〕改葬する話があった〔とき、父の怒りを買っていた母の改葬を承知しなかった〕。彼は死んだ父をあざむくことをしなかったのに、いったい生きている君にそむくはずがあろうか』と申したとか。これは君が臣を信頼した話です。

昔(春秋時代)、管仲は自身〔斉の〕桓公を射ましたが、のちにとらえられて魯から護送車に載せられ、若者にひかれて斉に送られました。管仲は桓公が自分を起用するにちがいないと予測していましたから、

〔斉への引き渡しを〕魯が後悔するのを心配して、若者に『わしはおまえのためにかけ声をかけるから、おまえは唱和してくれ。声と声があったら走ってくれ』と申しました。その結果、管仲がかけ声をかけ、若者は走りながらそれに唱和し、一日に数百里を行き、しばらくして到着しました。到着すると斉で大臣になりましたが、これは臣が君を信頼した話です。

臣が最初に領地をたまわりましたとき、辞令書に『植よ、この青(東方の色)き社を受けとり、東方に領地をもち、皇室の盾となり、魏の藩国となれ』とありました。そして与えられました 150 人の兵は、皆 60

歳ほどの年で、中には 70 歳の者もおり、親衛の騎兵と御用係をあわせても 200 余人でした。正直なところ年寄りではなく、すべて壮年の者だったとしても、不慮の事件に備え、見廻りや城の守りをするには〔200人では〕、考えてみると自分を守るにも不充分の数でした。まして全員老いぼれて腰が曲り杖をひきずっていたのです。ところが名目は魏の東藩ということで、王室の盾とされていました。臣は心中われながら気がひけました。たとえ諸国に赴任し、その国に士人がおったとしましても、合わせて 500 人を越えません。つつしみて考えますに、わが軍の増減には、何の関係もございません。

〔それでも〕領域の外(呉・蜀)が平定されない以上、どうしても兵を提供しなければならないとするならば、臣は指揮下の兵をひきい 2 倍の速度でかけつけ、夫婦は幼児を背負い、子弟は兵糧を懐にし、敵の鋒先や刀の刃を犯して、国難に伺じたいと願っております。これがどうして見習い中の子どもを差し出す程度のことでしょうか。愚が実際涙をふりしぼって河の水をふやしても、鼠(はつかねずみ)が海の水を飲みほすようなもので、朝廷に対しては全然得にも損にもならないのに、臣の家の暮しにとってはたいへんな損傷があるのです。

また臣どもの若者は前後 3 度にわたって送り出しまして、まともな人間はすでにいなくなっております。ただまだ 7、8 歳以上 16、7 歳以下の子供が 30 余人おります。今、指揮下の兵は皆、年老いておりまして、寝床に臥せり、かゆでなければ食べられず、視力もなくし、わずかに息をしている者が合計 37 人、病

みつかれ風が吹くとふらふらし、こぶができ、めしい・耳しいとなっている者が 23 人です。ただ今ではこ

の子供たちの成長を待っております。身体の大きな者は宿直護衛に当らせることができ、侵入者を防ぐには不充分ですが、こそどろの警戒には何とかなるでしょうし、小さい者は大きな仕事にはたえられないでしょうが、雑草を刈りとり、小鳥や雀を追い払ったり見張りをさせたりはできましょう。候人(賓客の送迎係)を休ませれば一つの仕事がおろそかになり、1 日狩猟(戦争)をすれば多くの仕事が廃され、自身で努力しなければ仕事は行なえません。つねに自身で関与し、下役人にまかせないよりしかたがありません。

出典 今鷹 真(1993)『正史 三国志 魏書 III』ちくま学芸文庫, p333-335.

魏書 29 管輅傳

廣平劉奉林婦病困,已買棺器。時正月也,使輅占,曰:「命在八月辛卯日日中之時。」林謂必不然,而婦漸差,至秋發動,一如輅言。

(裴松之による注)

輅別傳曰:鮑子春為列人令,有明思才理,與輅相見,曰:「聞君為劉奉林卜婦死亡日,何其詳妙,試為論其意義。」輅論爻象之旨,變化之義,若規員矩方,無不合也。子春自言:「吾少好譚易,又喜分蓍,可謂盲者欲視白黑,者欲聽清濁,苦而無功也。聽君語後,自視體中,真為憒憒者也。」

公平の劉奉林の妻の病気が重くなって、棺や送葬の道具も買い整えられた。正月のころのことであった。管輅に占わせると、いった、「8 月辛卯(しんぼう)の日の日中のときがご寿命です。」劉奉林はそんなことは当るまいと考え、妻もだんだん快方に向った。しかし秋になって病気は再発し、管輅のいったとおりの時刻に死亡した。〔1〕

〔1〕『菅輅別伝』にいう。鮑子春は列人の県令であった。聡明で思慮深く、才智を持ち道理に通じていた。その彼が管輅に会っていった、「聞けば、あなたは劉奉林のためにその妻の死亡の日を占い当てたとのことだが、なんと精妙なことであろう。そうしたことが可能であった理由を試みに論じていただけないだろうか。」管輅は、『易』の爻(こう)や象(しょう)が意味するところを論じ、万象が流転変化してゆく道理を説明したが、その説明は、あたかもコンパスで円を描き定規で四角を描くように、少しの齟齬するところもないものであった。鮑子春は、自分のことを顧みていった。「私は若いときから『易』を語るのを好み、また蓍(めどぎ・筮竹)を操作するのを喜んできた。しかしそれは、まったくのところ盲者が白黒を見分けようとし、聾者が音の清濁を聴きわけようとするのに異ならず、苦労してもなんの成果も得られぬのであった。あなたの言葉を聴いたあと、自らの素質について顧みれば、まったく暗愚であったことがわかる。」

出典 今鷹 真, 小南 一郎(1993)『正史 三国志 4 魏書 IV』ちくま学芸文庫, p359-360.

蜀書 杜微傳

杜微字國輔,梓潼人也。少受學於廣漢任安。劉璋辟為從事,以疾去官。及先主定蜀,微常稱,閉門不出。建興二年,丞相亮領益州牧,選迎皆妙簡舊德,以秦為別駕,五梁為功曹,微為主簿。微固辭,

致之。至,亮引見微,微自陳謝。高以微不聞人語,於坐上與書曰:「服聞德行,饑渴歷時,清濁異流,無咨覯。王元泰、李伯仁、王文儀、楊季休、丁君幹、李永南兄弟、文仲寶等,歎高志,未見如舊。猥以空,統領貴州,德薄任重,慘慘憂慮。朝廷主公今年始十八,天姿仁敏,愛德下士。天下之人思慕漢室,欲與君因天順民,輔此明主,以隆季興之功,著勳於竹帛也。以謂賢愚不相為謀,故自割,守勞而已,不圖自屈也。」微自乞老病求歸,亮又與書荅曰:「曹丕篡弒,自立為帝,是猶土龍芻狗之有名也。欲與羣賢因其邪偽,以正道滅之。怪君未有相誨,便欲求還於山野。丕又大興勞役,以向、楚。今因丕多務,且以境勤農育養民物,並治甲兵,以待其挫,然後伐之,可使兵不戰民不勞而天下定也。君但當以德輔時耳,不責君軍事,何為汲汲欲求去乎!」其敬微如此。拜為諫議大夫,以從其志。

杜微(とび)は字を國輔(こくほ)といい、梓潼(しとう)郡(ふ)県の人である。若いころ広漢郡の任安(じんあん)から学問を習った。劉璋が召し出して従事としたが、病気のため官を去った。先主が蜀を平定すると、杜微はつねに聾と称して、門を鎖し表へ出なかった。

建興 2 年(224)、丞相諸葛亮が益州の牧を兼任したとき、属官に選び迎え入れた者は、すべて以前から徳望の高かった者のうちより抜擢した。秦(しんみつ)を別駕(べつが)に、五梁(ごりょう)を功曹に、杜微を主簿に任命した。杜微は固辞したが、車をやって彼を迎えた。招き寄せると、諸葛亮が杜微と接見したが、杜微は自分から断った。諸葛亮は、杜微が人の言葉を聞きとれないというので、その席で文書を書き与えた、

「徳行を伝え聞きお慕いいたし、飢え乾く思いで月日をすごしてまいりましたが、清水と濁水が流れを異にするように生き方を異にしたため、〔今まで〕お目にかかってご意見をうかがうよすがもありませんでした。王元泰(謀)・李伯仁・王文儀(連)・楊季休(洪)・丁君幹・李永南(邵)兄弟・文仲宝(恭)らはいつもあなたの高邁な志に感感歎しておりましたから、お目にかからぬうちから旧知のごとく感じておりました。〔私は〕みだりに内容のない身をもって、貴州を宰領することになりました。徳義が薄いのに責任は重大であり、あれこれ心をいためつつ憂慮しております。朝廷(後主)におかれましては今年 18 歳になられたばかりですが、天性仁愛に富み聡明なお方でありまして、徳あるものを愛し、目下の者を大切になさり、天下の人々は漢王室を思慕しております。

あなたとともに天の意志にそい民の心に従って、この聡明な君主をお助けして、衰えた漢朝を復興するという仕事をりっぱに成しとげ、勲功を竹帛(史書)に記されたいものと思っています。考えてみますに、賢者と愚者は相談しあわないものですから、〔あなたは〕みずから関わりを断ち、労苦の多い生活を貫かれるのみで、気持ちを曲げようとは思われないのでありましょう。」

杜微は老齢で病気の身を養いたいから帰してほしいと頼んだ。諸葛亮はまた文書を与えて答えた、「曹丕は簒奪と弑逆を行ない、みずから立って皇帝となりました。それはちょうど土龍(土で作った龍。雨乞いに用いる)・芻狗(すうく わらで作った犬。祭祀に用いる)が名ばかりで実体のないようなものです。賢人たちとともにその邪悪と虚偽に乗じて、正道によってこれを滅ぼしたいと念じておりますのに、あなたが何の教示もなされないままに、山野に戻りたいと望まれるのを不審に思います。曹丕はまた大いに労役をおこして呉・楚に向おうとしています。いま、曹丕の多事多忙につけこんで、しばらく国境を閉鎖して農業を振興し、人民をはぐくみ、同時に軍備につとめつつ、その挫折を待つ所存です。その後で彼を討伐したならば、兵を戦わさず民を労することなくして、天下は平定することができるでしょう。あなたはただ徳義によって時代を輔佐してくださるだけで充分であり、あなたに軍事に関する責任を負わしはしません。どうしてそんなにあわただしく去ろうとなさるのですか。」彼の杜微に対する敬愛の念は、これほどのものであった。諫議大夫に任命して、

その希望をかなえてやった。

出典 井波 律子(1993)『正史 三国志 5 蜀書』ちくま学芸文庫, p326-328.

管子

入國

所謂養疾者,凡國都皆有掌疾,盲、啞、跛躄、偏枯、握遞,不耐自生者,上收而養之。疾,官而衣食之,殊身而後止,此之謂養疾。

「身体障害者に対する救護」とは、国都と都市にすべて掌疾の役所を設置することである。耳や目が不自由であったり、発声が不自由であったり、また足が不自由であったり、半身不随や指が曲がったままで伸びない者で、自活することのできない人たちは、お上が官立の病院に収容して蓑護し、死ぬまで衣食の世話をする。これが「身体障害者に対する救護」の事業である。

出典 遠藤 哲夫(2018)『新釈漢文大系 第 52 巻 管子(下)』第 7 版. 明治書院, p917-922.

晋書

志第六 律

漢章帝元和元年,待詔候鐘律殷上言:「官無曉六十律以準調音者。故待詔嚴崇具以準法教子 男宣,願召宣補學官,主調樂器。」詔曰:「崇子學審曉律,別其族,協其聲者,審試。不得依託父學,以為聰。聲微妙,獨非莫知,獨是莫曉。以律錯吹,能知命十二律不失一,乃為能傳崇學耳。」試宣十二律,其二中,其四不中,其六不知何律,宣遂罷。自此律家莫能為準。

志第十九 五行下

之恒寒,劉以為大雨雪,及未當雨雪而雨雪,及大雨雹,隕霜殺菽草,皆恒寒之罰也。京房《易傳》曰:「有德遭險茲謂逆命,厥異寒。誅罰過深,當燠而寒,盡六日,亦為雹。害正不誅茲謂養賊,寒七十二日,殺飛禽。道人始去茲謂傷,其寒,物無霜而死,涌水而出。戰不量敵茲謂辱命,其寒,雖雨物不茂。聞善不予,厥咎。」

穆帝永和七年三月,涼州大風拔木,霧下塵。是時,張重華納譖,出謝艾為酒泉太守,而所任非其人,至九年死,嗣子見殺,是其應也。京房《易傳》曰:「聞善不予茲謂不知,厥異,厥咎,厥災不嗣。者,有濁氣四塞天下。蔽賢道,災至世也。」

列傳第十三 山濤 王戎 郭舒 樂廣

濤中立於朝,后黨專權,不欲任楊氏,多有諷諫,帝雖悟而不能改。後以年衰疾篤,上疏告退曰:「臣年垂八十,救命旦夕,若有毫末之益,豈遺力於聖時,迫以老耄,不復任事。今四海休息,天下思化,從而

靜之,百姓自正。但當崇風尚教以敦之耳,陛下亦復何事。臣耳目瞑,不能自勵。君臣父子,其間無文,是以直陳愚情,乞聽所請。」乃免冠徒跣,上還印綬。詔曰:「天下事廣,加土初平,凡百草創,當共盡意化之。君不深識往心而以小疾求退,豈所望於君邪!朕猶側席,未得垂拱,君亦何得高尚其事乎!當崇至公,勿復為飾之煩。」

山濤は朝廷で中立の立場を守っていたが、晩年、(朝廷は)皇族が権力を専横するという状態にあったため、楊氏を任用することに反対し、たびたび諌言した。武帝は悟ってはいたが、改めることができなかった。後、年老いて体調が思わしくないことを理由に、辞職することを告げ、言うには、「臣はもうすぐ齢八十になろうとしており、残命はわずか朝夕の間にすぎません。もし、(臣が朝廷に留まることで)毛頭ほどでも利があるなら、どうして聖明の時代に力を出し惜しんだり致しましょう。老耄(老いぼれた老人。耄は八十歳及び九十歳)に迫られ、これ以上、職をつとめおおせる自信がございません。今、四海は休息し、天下は王化を慕い、

(陛下)に服従して静まっておりますので、多くの人民たちは自然と正しい方に向かいましょう。ただ、風教を盛んにすることだけをお考えになればよいのです。陛下も、もう何も私を必要とされることはございません。臣は耳も目も働かず、自ら励み勉めることができません。君臣・父子の間では(堅苦しい)文のやりとりは無用と申しますが、かくて、愚かな臣の気持ちを直に述べさせていただきました。どうか臣の頼みをお聞き届けください」と。そうして、冠をぬぎ、裸足になって印綬を返納した。武帝は詔して言った。「天下は広い、呉の領土が今ようやく平定されたばかりで、あらゆることがまだ草創の段階である。共に心情を尽くし、教化を進めようではないか。君は往時の帝の御心を深く理解せず、小病を理由に職を退かんことを求めているが、そんなことを、誰が望んだりしようか。朕は今なお、席を虚しくして賢者を待遇せねばならず、いまだ、「垂拱の化」(手をこまねいて何もせずとも天下がよく治まる。天子の徳化の盛んなこと)を得られないでいる。君もまた、どうして行いを高尚にすることなどできようか。国家のことをこそ心掛けるべきで、もう二度と虚飾の煩をおかすでない」と。

出典 鷹橋明久(2005)「『晉書』山濤伝訳注」『言語文化』3:47-61.

列傳第二十一 皇甫謐 摯虞 束皙 王接

謐曰:「人之所至惜者,命也;道之所必全者,形也;性形所不可犯者,疾病也。若擾全道以損性命,安得去貧賤存所欲哉?吾聞食人之祿者懷人之憂,形強猶不堪,況吾之弱疾乎!且貧者士 之常,賤者道之實,處常得實,沒齒不憂,孰與富貴擾神耗精者乎!又生為人所不知,死為人所不惜,至矣!之徒,天下之有道者也。夫一人死而天下號者,以為損也;一人生而四海笑者,以為益也。然則號笑非益死損生也。是以至道不損,至德不益。何哉?體足也。如回天下之念以追損生之禍,運四海之心以廣非益之病,豈道德之至乎!夫唯無損,則至堅矣;夫唯無益,則至厚矣。堅故終不損,厚故終不薄。能體堅厚之實,居不薄之真,立乎損益之外,游乎形骸之表,則我道全矣。」

列傳第二十三 愍懷太子

九年六月,有桑生於宮西廂,日長尺餘,數日而枯。十二月,賈后將廢太子,詐稱上不和,呼太子入朝。既至,后不見,置于別室,遣婢陳舞賜以酒棗,逼飲醉之。使門侍郎潘岳作書草,若禱神之文,有如太子素意,因醉而書之,令小婢承福以紙筆及書草使太子書之。文曰:「陛下宜自了;不自了,吾當入了之。中宮

又宜速自了;不了,吾當手了之。并謝妃共要剋期而兩發,勿疑猶豫,致後患。茹毛飲血於三辰之下,皇天許當掃除患害,立道文為王,蔣為主。願成,當三牲祠北君,大赦天下。要疏如律令。」太子醉迷不覺,遂依而寫之,其字半不成。既而補成之,后以呈帝。帝幸式乾殿,召公卿入,使門令董猛以太子書及青紙詔曰:「書如此,今賜死。」遍示諸公王,莫有言者,惟張華、裴證明太子。賈后使董猛矯以長廣公主辭白帝曰:「事宜速決,而群臣各有不同,若有不從詔,宜以軍法從事。」議至日西不決。后懼事變,乃表免太子為庶人,詔許之。於是使尚書和郁持節,解結為副,及大將軍梁王、鎮東將軍淮南王允、前將軍東武公澹、趙王倫、太保何劭詣東宮,廢太子為庶人。是日太子游玄圃,聞有使者至,改服出崇賢門,再拜受詔,出承華門,乘粗犢車。澹以兵仗送太子妃王氏、三皇孫於金城,考竟謝淑妃及太子保林蔣俊。明年正月,賈后又使門自首,欲與太子為逆。詔以門首辭班示公卿。又遣澹以千兵防送太子,更幽于許昌宮之別坊,令治書御史劉振持節守之。先是,有童謠曰:「東宮馬子莫聾空,前至臘月纏汝閤。」又曰:「南風起兮吹白沙,遙望魯國鬱嵯峨,千髑髏生齒牙。」南風,后名;沙門,太子小字也。

列傳第二十五 夏侯湛 潘岳 張載

大夫曰:「蓋有晉之融皇風也,金華啟徵,大人有作,繼明代照,配天光宅。其基德也,隆於公之處岐;其垂仁也,富乎有殷之在亳。南箕之風不能暢其化,離畢之雲無以豐其澤。皇道昭煥,帝載緝熙。導氣以樂,宣德以詩,教清乎雲官之世,政穆乎鳥紀之時。玉猷四塞,函夏謐靜,丹冥投鋒,青徼釋警,卻馬於糞車之轅,銘德於昆吾之鼎。群萌反素,時文載郁,耕父推畔,漁豎讓陸,樵夫恥危冠之飾,輿臺笑短後之服。六合時雍,巍巍蕩蕩,玄髫巷歌,壤,解羲皇之繩,錯陶唐之象。若乃華裔之夷,流荒之貊,語不傳於軒,地未被乎正朔,莫不駿奔稽,委質重譯。於時昆感惠,無思不擾。苑戲九尾之禽,囿棲三足之鳥,鳴鳳在林,夥於帝之園;有龍遊川,盈於孔甲之沼。萬物煙,天地交泰,義懷靡,化感無外,林無被褐,山無韋帶。皆象刻於百工,兆發乎靈蔡,紳濟濟,軒冕藹藹,功與造化爭流,德與二儀比大。」言未終,公子蹶然而興曰:「鄙夫固陋,守茲狂狷。蓋理有毀之,而爭寶之訟解;言有怒之,而齊王之疾痊。向子誘我以聾耳之樂,棲我以蔀家之屋,田遊馳蕩,利刃駿足,既老氏之攸戒,非吾人之所欲,故靡得而應子。至聞皇風載,時聖道醇,舉實為秋,藻為春,下有可封之人,上有大哉之君,餘雖不敏,請從後塵。」

華陽国志

國輔皓然,形動神沈。杜微,字國輔,人也。任安弟子。先主定蜀,常稱,闔門不出。建興二年,丞相亮領州牧,選為主簿,輿而致之。亮引見,與書誘勸,《三國志》云:「亮以微不聞人語。於坐上與書。」欲使以德輔時。微固辭疾篤。亮表拜諫大夫,從其所志。

杜国輔は、光明にして磊落な人柄で、身体が行動して内心が定まった。杜微、字は国輔、県の人である。微は、仁安の弟子である。劉備が蜀を定めると、微は常に耳が聞こえないと言っては門を閉ざして家から出なかった。建興 2 年(224)、丞相の諸葛亮が益州牧を領すると、微を主簿に任じ、輿を差し向け迎え寄せた。亮は、微と会った後、書状を与えて就任を勧誘し、彼の徳行で時政を輔翼させようとしたが、重病であるとして固辞した。亮は上表して、微を諫議大夫に任用し、彼の志向に従った。

出典 中林 史朗(2023)『完訳 華陽国志』志学社, p311.

韓非子

姦劫臣篇

凡姦臣皆欲順人主之心以取親幸之勢者也。是以主有所善,臣從而譽之;主有所憎,臣因而毀之。凡人之大體,取舍同者則相是也,取舍異者則相非也。今人臣之所譽者,人主之所是也,此之謂同取。人臣之所毀者,人主之所非也,此之謂同舍。夫取舍合而相與逆者,未嘗聞也,此人臣之所以取信幸之道也。夫姦臣得乘信幸之勢以毀譽進退群臣者,人主非有術數以御之也,非參驗以審之也,必將以曩之合己信今之言,此幸臣之所以得欺主成私者也。故主必欺於上,而臣必重於下矣,此之謂擅主之臣。國有擅主之臣,則群下不得盡其智力以陳其忠,百官之吏不得奉法以致其功矣。何以明之?夫安利者就之,危害者去之,此人之情也。今為臣盡力以致功,竭智以陳忠者,其身困而家貧,父子罹其害;為姦利以弊人主,行財貨以事貴重之臣者,身尊家富,父子被其澤;人焉能去安利之道而就危害之處哉?治國若此其過也,而上欲下之無姦,吏之奉法,其不可得亦明矣。故左右知貞信之不可以得安利也,必曰:「我以忠信事上積功勞而求安,是猶盲而欲知黑白之情,必不幾矣。若以道化行正理不趨富貴事上而求安,是猶而欲審清濁之聲也,愈不幾矣。二者不可以得安,我安能無相比周、蔽主上、為姦私以適重人哉?」此必不顧人主之義矣。其百官之吏,亦知方正之不可以得安也,必曰:「我以清廉事上而求安,若無規矩而欲為方圓也,必不幾矣。若以守法不朋黨治官而求安,是猶以足搔頂也,愈不幾也。二者不可以得安,能無廢法行私以適重人哉?」此必不顧君上之法矣。故以私為重人者,而以法事君者少矣。是以主孤於上而臣成黨於下,此田成之所以簡公者也。

およそ姦臣はみな君の意を迎えて気に入りとなり、それで君の寵愛という有利な条件を持とうとする。だから、君が何かを好めば臣(姦臣)はそばからそれを褒め、君が何かを憎めば臣はそばからそれをけなす。およそ人の常として好悪が同じであれば互に認めあい、好悪が異なると互に斥けあうものである。

いま臣下の褒めるものを君主も認めるような場合、これを同取(同好)の仲といい、また臣下の悪く言うも のを君主も斥けるような場合、これを同捨(同悪)の仲という。そもそも好悪が一致しておって、しかも互に そりが合わぬという間柄はなく、この事が臣下の、君の信任寵愛を得るための手段になるのである。さて姦臣 とは信任寵愛の条件を得て、これによって群臣のうちわが味方になるものを褒めて昇進させてやり、敵になる ものをそしって出世できぬようにする者だが、それでいて君主はこうした連中を制御する術を心得てもおらず、かれらの口と行ないとを見比べて誠実か否かを査べるでもなく、きまって、かねがねその臣が自分(君主)と うまの合うことを以て、今その臣の言うことをまにうけてしまうのである。こうした事情こそは、寵臣がまん まとその君を欺き私欲を達しうる原因なのであり、こういう事情の結果として、上においては国君が必ず臣下 に欺き惑わされ、下においては姦臣が必ずその勢力を固めてしまうのであって、こういう姦臣を君の独占と呼 ぶことができる。国にもし君の独占者が生ずると、もはや群臣は、各自の知恵や能力を尽くして君に仕え、そ の忠誠を表わす、ということができず、すべての官人は法規を守って職責を果たし功を認めてもらう、という わけにゆかない。

(群臣は働いて忠誠を表わしえず、百官は職を守って功をあげないようになるのは)なぜかと言うに。そもそも安全で有利なものに心を向け、危険で有害なものからは去るのが、人情である。いま人の臣となって、己れの能力を尽くして功を立て、己れの知恵をしぼって忠を示す人たちは、その身は苦しめられ、家は貧しく、親子もろとも禍いにさらされねばならぬが、姦悪な事をやって利益を収め、それで君主をごまかし、賂いを使

って重臣の気に入ろうと努める人たちは、身は尊くなり、家は富み、親子もろとも恩沢にあずかることができる、とあっては、人々がどうしてその安全で有利な(姦臣の一味となる)道を去って、危険で有害な(明法知術の士の味方になる)道を取ろうか。しかし、国を治めたその結果が、このように(姦臣どもをのさばらせることに)なっては、君主の過失である。こうなってから君が、臣下の姦悪をなすものなく、官が法規をよく守るようにと望んでも、かなわぬことは朋らかである。

そこで、君主左右の侍臣たちは、忠実と信義を守ったのでは安全と利益を得ることができぬとり、必ずこう言うであろう、わたしが忠実信義を以て君に仕え、功を積んで安楽の身の上になろうと計るのは、まるで盲人になって黒・白を見分けようとするようなもので、とても及ぶことでない、ましてや、学問に頼り理知で行動し、みだりに富の誘いには乗らない、というしかたで君に仕え、それで安楽の身の上になろうと計るのは、まるでつんぼになって声の清・濁を聞き分けようとするようなもので、とてもとても及ぶことでない。さてどちらにしても安楽が得られないならば、わたしは同じ心の連中とぐるになって君主の目や耳を蔽い、私利のために姦悪をやってのけて重人に取り入ること、これをやらぬわけにはゆかないんだ、と。こういう人たちは、もはや決して君主の支持する善悪など気にもかけない。また官吏はみな、廉直と正義では安楽の得られぬことを悟り、必ず言うであろう、わたしが清廉を以て君に仕えて、それで安楽の身の上になろうと計るのは、まるで器具なしに正円や方形を画こうとするようなもので、とても及ぶことでない。ましてや、法規を守って職責を果たし、徒党などは作らない、というしかたで君に仕え、これで安楽の身の上になろうと計るのは、まるで足を使って頭のてっぺんを掻こうとするようなもので、とてもとても及ぶことでない。どちらにしても安楽が得られないならば、わたしは法規を曲げて、私利を計り、そうやって重人に取り入ること、これをやらぬわけにはゆかないんだ、と。こういう人たちは、もはや決して朝廷の制定した法律など気にもかけない。こうして、私利を計って重人のために働く者がふえ、法規を守って忠実に君に仕える者は減る。そのために君は上において孤独となり、臣下は大抵下において徒党を結ぶ。こうした事情によってこそ、斉の田成子はその君簡公を弑したのである。

出典 竹内 照夫(2016)『新釈漢文大系 11 韓非子 上』47 版. 明治書院, p159-163.

解老篇

聰明睿智天也,動靜思慮人也。人也者,乘於天明以視,寄於天聰以聽,託於天智以思慮。故視強則目不明,聽甚則耳不聰,思慮過度則智識亂。目不明則不能決黑白之分,耳不聰則不能別清濁之聲,智識亂則不能審得失之地。目不能決黑白之色則謂之盲,耳不能別清濁之聲則謂之,心不能審得失之地則謂之狂。盲則不能避晝日之險,則不能知雷霆之害,狂則不能免人間法令之禍。書之所謂治人者,適動靜之節,省思慮之費也。所謂事天者,不極聰明之力,不盡智識之任。苟極盡則費神多,費神多則盲悖狂之禍至,是以嗇之。嗇之者,愛其精神,嗇其智識也。故曰:「治人事天莫如嗇。」

感覚や知力は天(天性)であり、行為や思慮は人(人の意志によること)である。人とは、天性の視力を使って物を見るとか、天性の聴力に由って音を聴くとか、天性の知力に頼って事を思慮するとか、(これら意志による)の働きである。故に見ることを過ごすと目がくもり、聴くことを過ごすと耳が利かなくなり、思慮を働かせ過ぎると知恵が鈍る。そして目がくもれば黒白の見分けがつかず、耳が利かないと声の清濁を聴き分けえず、知恵が鈍っては損得のけじめが分らない。黒白の見分けがつかぬはこれを盲と言い、声の清濁を聞き分け

えないのはこれを聾と言い、損得のけじめが分らないのはこれを狂と言う。盲であればまっぴるまの陥し穴も避けえず、聾であれば雷電の害にも気がつかず、狂であれば世の法令を犯して罰せられるという禍いを免れない。老子の書に、人を治め天に事えるには、とあるが、人を治めるとは、見ること聴くことを適度にし、思慮する力を省くことを言い、天に事えるとは、視カ・聴力を使いきることをせず、知力の限りを尽くすことをせぬ、という意味である。もしも(感覚の力や知力を)使いきるとか用い尽くすとかであると、精神(精力)がおびただしく費やされ、精神が費やされると盲・聾・狂気などの禍いがやってくる。だから(精神を用いるには)嗇にせねばならぬ。これを嗇にするとは、精神を惜しみ惜しみ使い、思慮の働きをけちけちと(大切に)用いることである。こうしたわけで、老子は、人を治め天に事えるには、嗇にするのが何より、と言ったのである。

出典 竹内 照夫(2016)『新釈漢文大系 11 韓非子 上』47 版. 明治書院, p238-240.

内儲説上篇

董閼于為趙上地守,行石邑山中,澗深,峭如牆,深百仞,因問其旁左右曰:「人嘗有入此者乎?」對曰:

「無有。」曰:「嬰兒癡狂悖之人嘗有入此者乎?」對曰:「無有。」「牛馬犬嘗有入此者乎?」對曰:「無有。」董閼于喟然太息曰:「吾能治矣。使吾法之無赦,猶入澗之必死也,則人莫之敢犯也,何為不治?」

董閼于は趙の上地(という地方)の長官になり、石邑(という町の近く)の山中を巡検したが、そこの谷間の深く切りたったさまはまるで造った石垣のように垂直で、高さ百仞もあろうか。そこでこの辺の部落の者に問うて、たれか、これまでにこの谷に落ちた者はあるかね。答えて、ありませぬ。あかご・白痴・盲人・聾者・犯人などで、これまでに落ちた者はあるかね。答えて、ありませぬ。牛馬・犬豚などで、これまでここに落ちた者はあるかね。答えて、ありませぬ、と。そこで董子はふっとためいきをついて、言った、わたしは治めることができるぞ、出す法令に決して容赦するところがないようにし、あたかもここの谷間に落ちたら必ず死ぬのと、同じようにするのだ、そうすれば、たれもこれを犯そうなどとはせぬわけだ、それで治まらぬはずはない、と。

【語釈】嬰児云云 感覚や判断力の十分でない人々のことで、瞽(盲人)が省かれている。

出典 竹内 照夫(2016)『新釈漢文大系 11 韓非子 上』47 版. 明治書院, p390-391.

老子(道徳経)

五色令人目盲;五音令人耳;五味令人口爽;馳騁田獵,令人心發狂;難得之貨,令人行妨。是以聖人為腹不為目,故去彼取此。

(我々を生かしている大切なものは素朴で質実な生活を営もうとする正帯な心掛けと、真実を見通す聡明さとであるが)飾り立てたさまざまな美しい色彩(ある衣裳や調度など)は、それに耽溺すれば人の目を眩惑させ、内面の真実の美を見窮める明を失わせてしまう。美しい音楽も同様で、これに耽溺すれば、真実の声に耳を傾

ける聡明さを失わせてしまう。おいしい御馳走は素朴な味覚を傷つけやぶり、馬を走らせ狩をする遊びは人の心を熱狂させて正常心を失わせ、手に入れ難い珍宝は不当な欲望を人に起させる結果、人の正常な行ないを妨げふさぐ。だから、聖人は腹をみたす質実な生活のために力を注ぎ、目をたのしませる華美な生活のために力を注がない。だから、私は彼すなわち目のためのものを去り、素朴で質実なこれすなわち腹をみたすの道を取って、心の静止・聡明さを保とうとするのである。

出典 阿部 吉雄, 山本 敏夫, 市川 安司, 遠藤 哲夫(2018)『新釈漢文大系 7 老子・荘子 上』56 版. 明治書院, p29- 30.

設文解字

《卷 8》《有部》

:兼有也。从有龍聲。讀若聾。

:兼有也。从有龍聲。讀若聾。

《卷 12》《谷部》

:大長谷也。从谷龍聲。讀若聾。

《卷十三》《耳部》

聾:無聞也。从耳龍聲。

𢕈𢕈:生而聾曰聳。从耳,從省聲。

:益梁之州謂聾為,秦晉聽而不聞,聞而不達謂之。从耳宰聲。

:聾也。从耳貴聲。

「聾」という文字が見られない文献

『大学』

『中庸』

『論語』

『孟子』